「高ぶりとへりくだり」  04.08.15
                 ルカ18:9〜14

 1945年10月に、ドイツの教会は、「シュトゥットガルト宣言」を発表
しました。第二次世界大戦中に教会としてなすべき事をできなかった
罪を告白し、平和を実現していく決意が込められたものです。
 自国の犯した罪の責任を、教会も自覚し担うという姿勢は、
諸外国の教会にも大きな影響を与えました。日本の敗戦の記念の
日に、キリスト教会がそのような宣言をしていることを、心にとめたいと
思います。
 イエスさまは、神さまの前で祈る二人の話をされました。二人とも、
神さまから「義」とされることを望んでいます。神さまにふさわしい者と
認められ、受け止められたいのです。人は、義とされている確信を得る
時に、生きる力を与えられます。だからこそ、神殿に来て祈っていました。

 ファリサイ派の人というのは、義とされるために一生懸命に努力して
いる人です。彼は、自分のしてきた良いことを挙げて祈ります。
 一生懸命に神さまにアピールをしています。時に自信のなさは、事柄を
言い訳がましくします。一方、徴税人には自信もアピールできることも
ありません。「罪人のわたしを憐れんでください」と祈るしかできませんでした。

 イエスさまは、徴税人が義とされたとおっしゃいます。義とされるために、
神さまの前でアピールや弁解の必要はないことがはっきりしました。
 ただ、神さまの憐れみに頼るしかないことを認め、「憐れんでください」
この一言に心を込めることこそ大切なのです。

 イエスさまは、うぬぼれ、人を見下す人に向かってこの話をされました。
 それは、自分に自信を持てないでいる悲しい人です。義とされる自信が
ない時に、自分より下の立場の人を捜して、見下し、責めたくなります。
 「あなたも、自信を持ってイキイキと生きてよい。徴税人をさえ
神さまは義としてくださる。

 わたしがあなたを義とするために命をかける。だから、もう人を見下す
ことや、自己弁明に夢中になって生きなくてもよい。あせるな。」
 そんな思いがこもっています。